| 西暦 | 和号 | ハーン年譜 | 熊本(肥後)史実 |
| 1850年 | 嘉永3年 | ・ラフカディオ・ハーン、ギリシャのサンタ・ モウラ島のリューカディアに生まれる。 (6/27)父はアイルランド出身の軍医、母 はギリシア人 ・チェンバレン、イギリスのポーツマスに生 れる。後に第五高等中学校にハーンを世 話する。 |
・横井大平 生まれる |
| 1851年 | 嘉永4年 | ・ | ・横井小楠43才は上方から北陸地方を遊歴し8月熊本へ帰国し た。 |
| 1852年 | 嘉永5年 | ・ | ・3月「学校問答集」を福井藩に送った。その後横井小楠は福井 藩に招かれ”明道館”の校長となった。 ・北里柴三郎(1852~1931)は、熊本県阿蘇郡小国町の惣庄屋に 生まれる。 |
| 1853年 | 嘉永6年 | ・ | ・黒船来航 ・熊本藩横浜本牧固めを命ぜられる |
| 1854年 | 安政元年 | ・ | ・増永三左衛門、上益城の御船に造砲所を設置 ・生き人形の名人松本喜三郎が大阪に鎮西八郎の人形をだし た。 ・横井小楠、横井家の家督を相続 ・日米和親条約締結 |
| 1855年 | 安政2年 | ・5月横井小楠は秋津町沼山津へ移転(ここには坂本龍馬も訪 れました。) ・安政江戸大地震 |
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| 1856年 | 安政3年 | ・ハーン両親離婚大叔母プレネンに引き取られる | ・横井小楠は矢島つせと再婚 ・阿蘇山噴火 ・吉田松陰はこの頃、萩に松下村塾を創設しています。 |
| 1857年 | 安政4年 | ・横井小楠は福井藩から招待交渉されました。 | |
| 1858年 | 安政5年 | ・4月横井小楠は福井藩へ招かれ着任しました。 ・安政の大獄 |
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| 1859年 | 安政6年 | ・横井小楠は福井藩で富国策を推進しました。 | |
| 1860年 | 万延元年 | ・日米通商条約批准のため幕府使節団の従者として熊本藩より 木村哲太と荒木数衛門の二藩士がポーハタン号にて米国に出 発する。木村はのちに米国見聞記『航米記』を残す。 ・横井小楠は福井藩で越前国是を策定する。『国是三論』(①開 国貿易②経済政策③海軍軍備充実) ・桜田門外の変 |
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| 1861年 | 文久元年 | ・ジェーンズ、ウエストポイント陸軍士官学校卒業。同時に南北 戦争に従軍 ・蔵原惟敦阿蘇に生まれる。 ・熊本藩政府は藩校時習館訓導、井口呈助等に相州出張、江戸 遊学等を命じ、合わせて外国派遣の意のあることを示達する。 ・熊本藩士山田五次郎、河上彦斉ら洋行を藩政府に誓願したが 許可を得ず。 ・幕府軍艦総練及び水泳等の稽古規則を定めて練習生を募る。 ・宮部県蔵は、諸藩から選抜された三千人の勤王党親兵の総監 に任命され三条総督の下で働いた。 ・横井小楠は福井藩主の政事総裁松平慶永の要請で江戸に出 て、10月福井経由で熊本へ帰国。 |
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| 1862年 | 文久2年 | ・スペンサーの社会進化論「第一原理」 発表 ・二つの考え方 ①進化についての一般公式 ・進化の過程は部分的な分化に絶えず 傾き、これらの部分が、まとまった全体 より大きく集合する傾向によって、単純 から複雑へと移行する。 ②変化の過程における「適者生存」 ・社会に関していえば、人間が多少とも似 通い、独自に類似の活動を営む分化か ら、個人の活動がより専門化し、密接に 相互協力をし合う複雑な文化への移行 を意味する。 ・スペンサーの傾向は、ハーンにとって信 仰に近いものになっていた。 |
・幕府は広く洋書調書において外国書籍の講習を受けることを 許す。 ・小楠、甥太平らを随えて福井に向かう。太平、江戸洋書調書に おいて英学を学ぶ。 ・6月小楠は福井経由で7月江戸へ向かわされた。 ・9月小楠は”約必戦・全国会議・開国論”を提案した。 ・横井小楠は、幕府政治総裁となった松平春嶽の要請に応じて 「国是7ケ条」(①将軍は上洛せよ②参勤交代廃止③大名の妻 子を国元へ帰せ④賢人を選んで政官とせよ⑤大いに言路を開 き天下公共の政をなせ⑥海軍を強化しろ⑦相対貿易を止め、 官による交易となせ)を作成。 ・江戸において小楠の士道忘却事件起こる。 ・12月横井小楠は、肥後藩江戸留守居役吉田らと宴会中に刺 客に襲われる。この時帯刀をしていなかったという理由により、 国元から肥後へ閉居させられ失脚した。 ・松平容保は京都守護職となった。 ・生麦事件 (島津久光の行列に遭遇したイギリス騎馬隊4名内1 を刺殺 江戸最後の事件) |
| 1863年 | 文久3年 | ・ジェーンズ、ウエスト・ポイント陸軍士官学校で教鞭をとる(1865 年まで。) ・原田助、熊本市坪井町に生まれる。 ・横井小楠江戸における事件の為知行召し上げ、士席剥奪の処 分を受ける。 ・長州藩下関外国船を砲撃。薩英戦争勃発。生麦事件と薩英戦争 ・八月十八日の変(七卿落ち) ・伊藤博文・井上馨らは英国留学 ・徳富蘇峰(1863~1957年)は、郷士の子として水俣市で生ま れた。徳富蘆花の兄。熊本洋学校でキリスト教に感銘を受け 同志社に入学し、新島襄から洗礼を受けた。熊本に帰り、大 江義塾を開校しました。「将来の日本」で注目を浴びると民有 社を起こして、国民之友や国民新聞を創刊し、平民主義(個人 の権利、平等の社会)を唱えた。その後日清戦争を機にして国 家主義、軍国主義及び皇室中心主義となり、日米開戦時には 、宣戦の勅旨起草し、敗戦後は戦犯容疑者として公職追放と なった。「近世日本国民史」100巻を発行している。 |
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| 1864年 | 元治元年 | ・熊本藩士莊村助右衛門、長崎において米国人宣教師C・M・ウ イリアムズより受礼、コルネウスと名乗る。 ・横井小楠は『海軍問答集』を著した。甥の左平太・太平兄弟を 勝海舟の神戸海軍操練所入所させた。 ・フルベッキ、長崎江戸町語学所の教授を委嘱され、週5日、日 に2時間英語と外国の学問を教える。この語学所はのち洋学所 済美館、広運館となる。熊本藩主の高官の訪問を受け、汽船購 入の助言を求められる。 ・宮部県蔵は、萩藩士吉田松陰と交友関係にあった。尊皇攘夷 の道をまっすぐ突き進んでいたが、京都三条池田屋事件に遭 遇し対談中新撰組会津藩に襲われ、はからずも志目前にして 45才で自決した。お墓は熊大裏の黒髪の小峯墓地にある。 ・7月11日京都三条木屋町においては松代藩(長野県)士佐久間 象山は、肥後の河上彦斉らに殺害された。理由は西洋学を唱 え交易開港を主張するからという・・・時代がほんのもう少し後で あれば、当たり前の主張でした。佐久間象山は『東洋の道徳』 『西洋の芸術』を唱えていました。 ・禁門の変・新島襄は米国に密出国・肥後藩は第一次長州征伐 に出兵 |
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| 1865年 | 慶応元年 | ・薩摩藩留学生 森有礼ら十余人薩州鳥羽を発し、英国に赴く ・5月坂本龍馬は鹿児島に西郷隆盛を訪ね薩長和解周旋を依頼 された帰路、熊本の横井小楠を尋ねた。 ・熊本藩士莊村助右衛門、長崎において英国人グラバーを訪ね、 薩摩藩英国留学生の消息を得る。 ・左平太ら熊本藩長崎遊学生講義に満足せず、フルベッキによる 直伝習を学校当局に強く要望する。 ・左平太、書簡を小楠に送り、洋行の意志を打ち明ける。 ・ジェーンズ、オレゴン州スティーブンズ要塞の中隊長。 |
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| 1866年 | 慶応2年 | ・福沢諭吉『西洋事情』 ・薩長同盟 ・遠山参良、熊本県八代郡鏡町で誕生 ・薩長同盟 ・徳川慶喜は征夷大将軍となる。 ・肥後藩は第二次長州征伐に出兵。 ・幕府、学術修行及び貿易の為の海外渡航を許す。 ・横井小楠は甥をアメリカに留学させた。 ・フルベッキ、横井左平太(伊勢佐太郎)、太平(沼川三郎)兄 弟の米国留学に際しニューヨーク市オランダ改革派教会外国 伝導主事J・M・フェリス宛紹介状を書く。 ・横井左平太・太平兄弟長崎よりパーク船に乗り、喜望峰回りで 米国留学の途につく。 ・横井兄弟ニューヨーク着。船長と共にフェリスを訪ねる。 |
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| 1867年 | 慶応3年 | ・ジェーンズ軍隊を依頼退職 ・第122代明治天皇即位 ・横井小楠は松平慶永へ建白。大政奉還、王政復古の大号令。 ・熊本藩士 莊村省三は熊本藩命によりピストルを輸入した。 一丁は桂小五郎に贈呈し坂本龍馬に見せています。一方、宣 教師フルベッキから聖書(漢訳ょ)を入手し洗礼をうけたと云わ れます。 ・坂本龍馬・中岡慎太郎は京都で暗殺された。 ・氏族による西南戦争参加、国進党の進出。 ・石造眼鏡橋架橋。八代郡東陽村はかって種山村といい江戸時 代から大正時代かけて石工職人が多く住み、藤原林七、岩永 三五郎、橋本勘五郎らが名声得て全国に眼鏡橋を作りました。 |
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| 1868年 | 慶応4年 明治元年 |
・ジェーンズ、ハリエット・スカッダーと結婚し、メリーランド州セン トデニスで農業に従事 ・横井小楠上京し、徴士参与を拝命し、従4位下に叙せられる。 ・肥後藩兵制改革 ・横井兄弟本国召還のことで肥後藩の役人長崎のフルベッキを 訪る。 ・横井小楠、ニューヨークのフェリス宛に二甥に対する平素の好 意に謝して礼状を書く。 ・熊本船場の橘屋に熊本洋学所開設。 ・戊辰戦争開始。五箇条のご誓文。江戸城開城。 ・肥後藩の国学者木原楯臣(藤園)が、「観古雑帳」を発刊。 ・徳富蘆花誕生(1868年~1927年)は、熊本に生まれ、同志社 に入学後、帰郷してキリスト教の洗礼を受けました。西南戦争 を背景にした物語も好評であった。伝記「トルストイ」を刊行した。 |
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| 1869年 | 東京遷都 | ・ハーン渡米。シンシナティにいる大叔母を 訪ねるが、面倒を見てもらえず、生活のた めに種々の仕事をする。印刷業ヘンリー ・ワトキンスに救われる。 |
・横井小楠は61才という高齢ながらも経済ノウハウを認められ新 政府に出していたが・・・京都にて刺客の凶刃にたおれる。 ・「天道覚明論」が阿蘇神社に投げ込まれました。(横井小楠との 噂) ・横井兄弟、外国官より米国への再留学を命ぜられる。フルベッ キ開成学校教師となる。横井大平病気のため帰国。 ・横井左平太、日下部太郎の両名、海軍兵学校入校の件でワシ ントン政府と接衝する。 ・熊本藩士津田亀太郎、林玄助の両名、チャイナ号にて横浜出 港、米国留学の途につく。 ・横井左平太、松村淳蔵の両名、アナポレス海軍兵学校に入校 する。 ・版籍奉還により、藩主は知藩事になりました。 ・肥後藩主細川韶邦は熊本藩知事となりました。肥後藩→熊本 藩と名称変更。 |
| 1870年 | 明治3年 | ・平民の苗字使用許可されました。 ・細川護久は知事となり、実学党を重用、減税、藩役人削減、藩 校(時習館、再春館を廃止して医学校を設立)翌年には安岡良 亮に知事を交代し実学党も追われた。 ・津田、林の両名、アナポリスに左平太を訪ねる。 ・肥後藩、長崎在住英人グラバーより龍驤艦購入。 ・肥後の維新と言われる藩政改革 ・フルベッキ、横井大平から熊本藩への御雇外国人斡旋依頼を ニューヨークのフェリスにつたえる。 |
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| 1871年 | 明治4年 | ・横井左平太、結核の為死亡 ・ジェーンズ東京到着→熊本到着 ・廃藩置県。熊本県設置。 ・熊本洋学校開校。以後5年間にのべ200人の生徒がここで学 んだ。 ・岩倉使節団米欧へ派遣。在米の新島襄これに随行重任を果た す。 ・横井左平太米国から一時帰国する。 |
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| 1872年 | 明治5年 | ・太陽暦採用 ・福沢諭吉「学問のすすめ」発刊 ・肥後藩主の弟、長岡護美とその従者、岩尾三郎(岩尾俊貞)の 米国留学について、フルベッキ、フェリス宛にニューヨークでの 世話を依頼する。 ・津田静一、米国モンソン中学を卒業する。 ・熊本県、白川県と改称され、八代県を吸収 ・明治天皇、熊本洋学校行幸。 ・横井左平太、アナポリスへ帰任のため米国へ向かう。 ・林玄助(正明)、英国より帰国。司法省法官となる。 ・米欧使節団全県大使岩倉具視、大久保利通、連盟でフェリスに 対し米国留学生への貢献を謝して感謝状を贈る。 ・津田静一、イェール大学に入学する。 ・阿蘇山噴火 ・肥後国をそのまま熊本県として成立しました。 |
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| 1873年 | 明治6年 | ・キリシタン禁制の高札撤去 ・ジェーンズ『生産初歩』(熊本洋学校生徒、山崎為徳・松村元児 市原武正 共訳) ・津田静一、米国より帰国する。 ・ジェーンズ主催聖書研究会始まる。 ・全国に鎮台設置。徴兵令。征韓派敗北 |
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| 1874年 | 明治7年 | ・ハーン『シンシナティー・インクワイラ』の 記者となる。 |
・横井左平太、米国より帰国する。 ・横井左平太、元老院権少書記官を拝命する。 ・『白川新聞』発刊。 ・熊本洋学校に女生徒2人入学。 ・熊本洋学校継続祝賀会。ジェーンズ祝賀演説。 ・C・L・ブラウン、北米合衆国ノースカロライナ州で誕生。 ・板垣退助立志社創設 |
| 1875年 | 明治8年 | ・中原淳蔵、工学寮入学(在学中工部大学と改正さる)。 ・山崎為徳、洋学校生徒中初めての信仰告白。以後級友間に告 白相次ぐ。 ・ジェーンズの日曜礼拝はじまる。 ・原田助、熊本洋学校に入学。 ・横井左平太、病没する。 |
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| 1876年 | 明治9年 | ・花岡山結盟(熊本バンドの起源)。 ・結盟参加者に厳しい迫害続く。彼らの多くは熊本を去り、同志社 新島襄の元に集まり、学業を続ける。 ・県立熊本中学校設立。翌77年西南戦争のために廃校となる。 ・モンドレル熊本伝道。熊本洋学校廃校。 ・ジェーンズ離熊、大阪外国語学校教師となる。 ・神風連の乱 熊本敬神党ともいうべき肥後勤王党から生まれた復 古主義の神風連 士族約170名は、このままでは神国が滅び ると新開皇太神宮太田黒伴雄を総志として安岡県令らを襲撃し たが新兵器で武装した新政府には勝てずに敗北しました。 ・熊本県に戻る |
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| 1877年 | 明治10年 | ・ハーン、ニューオリンズ市へ移る。 翌年6月「ニューオリンズ・アイテム社」に 入る。(27才) |
・中村敬宇の「西国立志編」出版さる。 ・ジェーンズ、神戸港から離日、セントデニスの旧居にかえる。 ・西南戦争勃発 2月19日熊本城炎上。薩摩軍は雪の降る日に 鹿児島県を出陣し、熊本鎮台を包囲した。 ・3月20日薩摩軍は博多から南下した政府軍と激戦したが、田原 坂の戦いで、薩摩軍は敗北し4月15日から退去開始した。 西郷隆盛は鹿児島の城山に立て籠もり最後の戦いを挑みまし たが9月多くは自刃や戦死して西南戦争は国内の最後戦争とし ては最後になり終結しました。 【余談】西郷隆盛の先祖は、6代前に江戸時代元禄期、肥後菊池 一族の西郷九兵衛が薩摩に移ったといわれています。 ・熊本県 玉名・菊池・山鹿・山本郡にて農民一揆 |
| 1878年 | 明治11年 | ・広取学校、熊本県から認可され、開校式をあげる。 ・大久保利通暗殺されました。 |
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| 1879年 | 明治12年 | ・聖公会設立。 ・県立熊本中学校復興されて開校。 ・原田助、広取学校卒業。 |
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| 1880年 | 明治13年 | ・原田助、同志社英学校入学 ・中原淳蔵『泰西名士鑑』 ・シェイクスピア劇『ベニスの商人裁決』洋学校出身の者により本邦 初演。 ・聖公会集会所創設。 |
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| 1881年 | 明治14年 | ・ハーン、「タイムズデモクラット」社に移り 文学部編集長となる。ヨーロッパ文学、 特に新しいフランス文学の紹介や翻訳 に努力する。(31才) |
・井上毅は伊藤に協力し明治14年の政変にて大隈重信を追放 した。 ・井上毅・・・・教育勅語の起草と制定に尽力した。 天保十四年熊本に生まれています。陪臣格の軽輩の飯田家に 生まれながら藩校時習館に進んだのは、学問が一頭地を抜き ん出ていたからでした。 |
| 1882年 | 明治15年 | ・井上毅 条約改正交渉開始。 ・済々黌 創立 ・中原淳蔵、後部大学卒業 ・広取学校廃止される。 ・徳富蘇峰、「私立変則中学校設置伺書」を熊本県会に提出。 ・大江義塾、開校式をあげる。『大江義塾雑誌』創刊。 |
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| 1883年 | 明治16年 | ・メソジスト伝道開始 ・大江義塾一校舎竣工する。 |
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| 1884年 | 明治17年 | ・ニュー・オーリンズ万国博覧会開催。 その会場でハーン、日本政府代表の 服部一三と出会う。 |
・メソジスト教会設立 ・原田助、同志社本課を経、余科(神学科)に進む。 ・阿蘇山大爆発 |
| 1885年 | 明治18年 | ・徳富蘇峰「私立大江義塾規則改正伺書」を熊本県会に提出。 ・徳富蘇峰「塾金募集趣意書」を各有志へ配布し募金にかかる。 ・林正明死去。(3・21) ・ジェーンズ、この頃ハリエットに離婚訴訟を起こされ、スカッター 家や伝道界全体を相手に孤軍奮闘している。 ・組合教会伝道開始。 ・徳富健次郎受洗。 ・徳富蘇峰、大江社を設立。 |
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| 1886年 | 明治19年 | ・組合教会設立 ・中学校令公布。高等中学校の設置区域の第五区に九州7県 が割り当てられた。 ・ジェーンズの妻ハリエット「怪異なる一朝の病」にて急死。 ・大江義塾閉鎖。(9・14)塾の解散式を行う。会する教員・塾生 79人。 |
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| 1887年 | 明治20年 | ・徳富蘇峰「民友社」創設。 ・聖公会会堂設立。 ・日本聖公会組織。 ・熊本女学会設立。 ・海老名禅正、熊本赴任。 ・熊本市古城の仮校舎で、第五高等中学校開校。 ・熊本県会で熊本中学校の88年度予算が全額抹消される。 |
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| 1888年 | 明治21年 | ・ハーン、小説『チタ』が『ハーバーズ・マン スリー』に連載される。これによりハーバ ーズ社との関係が生じ、90年には 『仏領印度の2年間』も同社から出版され る。(38才) |
・熊本中学校廃止される。 ・熊本英学校認可される。 ・中原、第五高等中学校教師に任命さる。 ・原田助渡米。シカゴ大学を経、イェール大学に留学。 ・ハーン、小説『チタ』が『ハーパーズ・マンスリー』に連載される。 これによりハーバーズ社との関係が生じ、90年には『仏領印度 の2年間』も同社から出版される。 |
| 1889年 | 明治22年 | ・熊本女学校認可。 ・中原淳蔵、官立東京高等工業(現東京工大)教授。 ・第五高等中学校、黒髪の本校舎に移転。 ・大日本帝国憲法施行 ・肥後大矢野家から、肥後御家人竹崎季長の蒙古襲来絵巻が 明治天皇へ献上されました。 |
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| 1890年 | 明治23年 | ・ハーン、ハーパーズ社と契約のもとに、 日本に向かう。3月6日、ニューヨークを発 ち、4月4日横浜に上陸する。 ・5月、同社より『ユーマ』出版。 ・8月、チェンバレン教授や、文部省不通 学務局長服部一三らの斡旋によって、松 江中学の英語教師の職を得る。 ・教頭、西田千太郎と出会う。(40才) |
・リデル熊本着任 ・ハーン、ハーバーズ社との契約のもとに、日本へ向かう。 3月6日、ニューヨークを発ち、4月4日、横浜に上陸する。5月 、同社より『ユーマ』出版。8月、マクドナルド・チェンバレン教授 や、文部省普通学務局長服部一三らの斡旋によって、松江中学 の英語教師の職を得る。教頭西田千太郎と出合う。 ・府県制・郡制 新島襄 没。 |
| 1891年 | 明治24年 | ・福田令寿受洗。 ・第一高等中学校にて内村健三不敬事件起こる。 ・ハーン、西田千太郎の紹介で、小泉セツと結婚。(入籍はしない ので、第五高等中学赴任の際も独身扱いである。)11月、第五 高等中学校外国人教師となる。住居は手取本町34。約1年後、 外坪井西堀端35に転居。 ・原田助、イェール大学卒業。組合教会世界大会出席。帰国後、 東京番町教会牧師就任。『六合雑法』編集に従事。 |
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| 1892年 | 明治25年 | ・熊本英学校にて奥村禎次郎不敬事件起こる。 ・組合教会堂建設。 |
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| 1893年 | 明治26年 | ・ジェーンズ再来日。以後6年間、京都の第三高等中学校、鹿児島 造士館高等中学校、第三高等学校で英語を教える。 ・内村鑑三熊本英学校にて教壇に立つ。 ・ハーン、長男一雄誕生。 ・メソジスト教会会堂建設。 ・日本基督教会熊本伝道開始。 |
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| 1894年 | 明治27年 | ・高等学校令公布。第五高等中学校は第五高等学校となる。 ・熊本英学校は九州私学校と改称される。 ・ハーン、9月、『知られざる日本の面影』ホートン・ミフリン社から 出版。11月、第五高等学校を去り、神戸クロニクルに移る。 ・日清戦争開始。 ・阿蘇山大爆発 ・北里柴三郎は、香港でペスト菌を発見しています。 |
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| 1895年 | 明治28年 | ・ハーン、ホートン・ミフリン社より『東の国から』出版。 |
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| 1896年 | 明治29年 | ・ハーン、ホートン・ミフリン社より『心』出版。 ・ハーン、東大において英文学講義を始める。 ・夏目漱石、熊本着。(4月13日) |
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| ■あとがき 父が残した一冊の本、それは田中啓介編集『熊本英学史』です。その本は1642年、国禁を犯してオランダに留学医学を修めた内藤宗印から始まり、1949年までの熊本における英学の摂取、受容とその対応が記されています。 私は今回、熊本の歴史の中で小泉八雲とその歴史背景を中心に取り上げてみました。新しい文化を取り入れて行く過程で起きる様々の葛藤が、新たな文化を創り上げていく・・・そこには勇気と決断、信念と行動があり、時代の流れの中で家族を愛し、国を愛し、翻弄の中で必死に生きてきた様子が鮮明に映し出されています。 そして、運命ともいうべき天(神)の導きが国を超え新しい文化(光)をもたらす。今回、私はこの編集にあたりその一人一人に勇気付けられ、また天国にいる父に勇気を与えられたました。 2006年2月5日 戸塚 頼太 |
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